戦後の世界は日本敗戦史観、GHQ占領史観、東京裁判史観であることは指摘して来たが、未だ知らなかった隠された終戦の真実がソ連侵攻・北方領土占領・戦争犯罪裁判であった。
これを知ると、歴史認識が如何にあやふやであるかが解かる。
先ずは歴史の事実をしっかり掴むことが必要であると認識した。
これから述べることは、松本利秋著『日本人が知らない「終戦」の真実』に依拠しているが、私見を含んでいる。
ソ連侵攻と北方領土占領
8月15日はポツダム宣言受諾=日本軍の降伏表明を玉音放送により昭和天皇(大元帥)が国民に知らせた日であり、戦争終結の日ではない。
政府は8月15日に終戦記念日として行事を行っているが、戦争終結は9月2日の戦艦ミズーリにおける降伏文書調印式の日である。
戦争終結は双方の合意による契約で成立するからである。
だから8月15日から9月2日までは単に戦闘が停止している状態であり、米英中は8月15日に戦闘を停止した。
ところがロシアはこれを無視して8月16日南樺太、8月18日千島列島に侵攻した。さらに調印後の9月5日まで歯舞群島を占領した。
調印後の侵攻は明らかに違反しているが、火事場泥棒と非難しても後の祭りである。
日本軍第5方面軍樋口季一郎中将は占守島侵攻を受け反撃を命令、善戦したが大本営の戦闘停止命令を受け8月24日停戦降伏した。
この戦いでソ連の侵攻は遅れ、北海道占領が阻止(先に米軍が占領)された。
占守島の戦い 昭和20年8月18日 ソ連による日本の分割占領を断固阻止した史実
https://www.youtube.com/watch?v=9oNT1fjsQ3c
占守島以外の千島列島では戦闘はなかった。降伏後、武装解除された日本兵はシベリアへ抑留された。
日本はソ連が攻撃する限り防衛する権利があり、ソ連の侵攻は9月2日までは合法と見なされているのである(心情としては受け入れ難いが)。
戦闘放棄した日本は日本固有の領土と主張する根拠を弱めるものと受け取られている。
ソ連から見ると固有の領土ならば血を流して抵抗するべきだ、それがなかったのはアイヌ民族のものだった、だからアイヌに還すという理屈を言っている。
日本軍は国際常識をよく理解していなかったのだろうか?
それとも負けっぷりをよくしようとしたのだろうか?
調印するまでは、相手が攻めてくれば防がなければいけない。
玉音放送があるからといって武装解除すれば、殺されるか捕虜にされるだけであり占領されてしまう。
ヨーロッパ戦線ではドイツが降伏した5月7日以降も、チェコスロバキアにいたドイツ軍90万をソ連は攻撃し5月11日までに壊滅させている。
中東紛争でも朝鮮半島でも停戦協定すら破られているのが現状である。
ロシアが正当に北方4島を手に入れたと思っている限り還るのは難しい。
スターリン時代のソ連の問題を暴き反省を促し、ロシアの国力と国論・歴史認識の変化を誘い、還したくなる状況を作ることである。
(今だにロシア人はスターリンを歴史上最も偉大な人物としている。ここが問題だ。https://www.afpbb.com/articles/-/3133482)
それには戦争以外の歴史・思想・文化・経済など全ての分野を動員して、ロシアより日本が素晴らしい、日本に憧れるように歴史戦・情報戦・プロパガンダをしかけなければならない。
21世紀の黄金の国ジパングを伝えるのである。
無為に過ごせば千年経っても還らないだろう。
東京裁判以外にも各国で日本の戦争犯罪裁判が行われた。
日本の戦争犯罪裁判が東京裁判=極東国際軍事裁判(1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日)で行われたことは教科書で知っている。
平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものである。
「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告人は7名、人道に対する罪で起訴された被告人はいない。
裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。
しかし、これ以外にも各国で行われていた。
中国では蒋介石の中華民国と毛沢東の中華人民共和国から裁判を受けていた。
1946年4月蒋介石国民党政府でB級(通例の戦争犯罪)とC級(人道に対する罪)の裁判が行われた。その結果死刑149名、無期刑83名、有期刑272名であった。
中華人民共和国は国家成立後1956年に裁判を行った。
満州でソ連により抑留された者966名と共産軍と戦った捕虜140名である。
裁判で45名に絞り、全員が禁固刑なった。
ここで国民党政府と共産党政府の刑の重さに大きな違いがある。
国民党政府は国共内戦を背景に、日本兵の一部を厳しく処罰し、他と区別し中国民衆の怨念を抑制し、寛大さをアピールしようとした。
共産党政府は日本の軍国主義に罪があり、人民には罪はないとした。
冷戦の中で日本を敵に回したくないという意識と報復出来ないことの正当化、
中国人の報復感情を抑えた結果が軽い判決となった。
マニラ軍事裁判も行われた。
山下奉文陸軍大将以下212名が起訴され、177名が有罪、35名が無罪となった。死刑69名、終身刑33名、有期刑75名。無罪は33名、2名が釈放となった。
有期刑・終身刑の判決を受けた戦犯は、1953年7月4日キリノ大統領の特赦によって減刑・釈放された。
「平和に対する罪」「人道に対する罪」は、この戦争を裁くために後から作られた罪(事後法)であった。
法令は施行と同時にその効力を発揮するが、原則として将来に向かって適用され、法令施行後の出来事に限り効力が及ぶのであり、過去の出来事には適用されない。
「平和に対する罪」「人道に対する罪」はニュルンベルク裁判の基本法である1945年8月8日国際軍事裁判所憲章で初めて規定され、東京裁判にも適用された。
これは法令不遡及の原則を破り作ったものである。
勝てば官軍のルールであった。
連合国には、原爆投下も無差別爆撃も、人道に対する罪にと問われていないが、長い人類史の視点から見れば明らかな罪であり、西欧中心の歴史観が変わる時代が来れば、きっと見直しされるだろう。
B級戦犯(通例の戦争犯罪)、C級戦犯(人道に対する罪)の真実はどうであったか知らないが、戦闘は殺戮と破壊であり、戦争ということで兵士の殺人罪が問われないだけのものである。
戦闘以外で、民間人や武装解除した者、丸腰の者を殺せば戦争犯罪と言えるが、詳しい状況が解からない下では、報復的な裁判も行われる可能性がある。
日本はジュネーブ条約を批准していなかったので、捕虜の扱いなどで人権に薄いところがあったかもしれない。
日本人の矜持とアイデンティティ
本来は日本が自らこの戦争犯罪を軍事法廷で裁くべきものであった。
しかし、軍隊が解体され、政府も占領下で何も出来ず、連合国に丸投げになってしまった。
賊軍であったかどうかは別にして、国家の規律・日本人として矜持を明確にすべきであった。
この点日本は責任を放棄しているのである。
第1次大戦後にドイツは国際法廷ではなくライプツィヒ最高裁で国内法により戦犯を裁くことを提案し、連合国もこの提案で合意した経緯がある。(参照:国際軍事裁判所憲章ライフツィヒ裁判)
自ら責任を明らかに出来ないことが、日本人の依存心を膨らませ、アイデンティティの喪失につながっているのである。
依存心こそ自立精神を蝕み、国家の崩壊に繋がる元凶である。
朝鮮の歴史と北朝鮮の現状をみればよく解ることである。
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